
日本回復への道すじ… 末期的な混迷を深める日本をかつての誇りある国へと導くための、中田 宏が思い描くビジョンをぜひご覧下さい。
台風や落雷や山火事もない森林は、枯れた葉や枝が堆積したまま固まって新しい芽が出てくるのを阻み、結果的に荒廃に向かっているという話を聞いたことがあります。
そのような森林を再び活性化させるのは、自然の災害なのだそうです。台風は大木を倒すこともありますが、堆積している枯れ葉などを吹き飛ばし、新しい芽が出てくるために重要な役割を果たします。また落雷や山火事によって周りの木々が倒れると、その機会を逃さず、とたんに芽を出す植物もあるそうです。
私たちにとっては多くの被害をもたらす自然の猛威が、森林にとってはプラスに作用する場合があるということを知り、なんと自然の摂理というものは、多くの示唆に富んでいることかと感心します。
ひるがえって、現在の日本はさしずめ荒廃に向かっている森林のような状態に感じます。地表が硬直し、新しい芽が出ようとしても分厚い堆積物で阻んでいる、そんな森林です。
経済指標を見ると、日本の一人当たりのGDPはかっての第1位から23位へと後退し、失業者数は2008年10月、200万人を越えました。昨秋来の世界的景気後退で日本の経済はさらに厳しさを増しています。国や地方自治体の借金は急速に増え続け、GDP比で約160%と先進国中で群を抜いて1位、食糧自給率は約40%と、先進国中最下位です。長らく維持した「世界第2位の経済大国」は五年以内に中国に追い抜かれると予測されています。人類史上例を見ない急速な高齢化が進み、長寿を素直に喜べない状況となっています。
人々の生活からは安心感がなくなり、社会の矛盾に憤りや虚しさを覚え、不公平感が行き場なく蔓延している社会になってしまったと言っていいでしょう。毎年3万人以上が自ら命を絶っている一方、人とは思えない犯罪が頻出しています。
荒廃した森林に自然の摂理が働くことはあっても、日本社会が自然によって救われることも他国が導いてくれることもありません。国を立て直すには、国民自身が目覚め、リーダーは立場を自覚し、具体的な対策を講じて行動を起こすことしか解決の方法はあり得ません。
こうなってしまった理由の大部分は、政治の機能不全によるものだと私は認識しています。国家の運営を預かっている政府が問題の根本解決に手をつけず、先送りで小手先の解決に逃げてきたからなのです。
具体的には、国家の理念の欠如と役割分担の曖昧さがもたらしてきた結果です。すなわち、目指すべき国家像や理念を政治家が提示しないままに政府が営まれ、その時々の問題に対して目先の政策判断が繰り返されてきたということです。だから、「得か損か」「好きか嫌いか」が透けて見える議論ばかりで、目指すべき姿に近づいていくための「良し悪し」で政策が議論されないのです。国家理念を示すことも、それに向けた政策判断をすることも、国民からの信託を受けた政治家こそが果たさなければならない役割であるにもかかわらず、多くの問題で結論を先送りし、その代わり、小手先の対策を官僚にまかせてきました。
また、役所は本質的な解決策を立案するための組織とは言えません。当面の間、息つぎができればいいという考え方で対処するケースが大半であり、基本的に従来のやり方の延長線上で手直しをして終わらせます。
そもそも、2年ほどで人事異動がくり返される官僚が大局的な判断などできるはずもありません。さらに政権投げ出しや内閣改造によって、大臣の就任期間が官僚より短かいという現状では、国家的な大問題を本質的に解決することは夢のまた夢です。
政治家が国の目指すべき姿を明確にし、共有の国家目標に向けた課題解決のための政策決定に対する責任を負い、官僚は円滑な政策遂行に対する責任を負う、そうした役割分担のもとに政府が機能してきませんでした。
それは政治家が政治家たる使命を自覚してこなかったからだと総括するべきです。しかしながら、どれほど憂いても、どれほど批判しても、それによって何かが変わるわけではありません。必要なのは行動です。行動あればこそ次なる展望が開けるという思いのもと、山田宏・杉並区長ら同志とともに、日本の国作りの本質とは何か、日本国民の幸福とは何か、ということについて徹底的な議論を繰り返し、「日本よい国構想」という理念をまとめあげました。
そこには日本の政治にとって決定的に欠けていた国家観、すなわち我が国の目指すべき姿がわかりやすく表現されています。
では、なぜ国家観が必要なのでしょうか。
それは、何よりも、国民の一人ひとりが天分を活かし幸福感を得ていくために、共通の基盤である日本という国家のあり方が決定的に重要だからです。国民や領土や主権をもって定義される「国」を言っているではありません。一人ひとりの可能性を高めるためには、安心や意欲や信頼といった心に宿るものが共有される「国家」が必要なのです。両親から生を受け家族に育まれて自らの生き方を決めていくように、日本は私たちにとって家族の先にある大きな家、すなわち国家だからです。目指す国家像や理念がないままに、各論だけを論ずることは危険なことでもあります。政策通と言われる政治家と評論家が討論をしている場面がマスコミに映し出されますが、評論家はともかく政治家の側には、芽吹かせる政策の地中深くに「根っこ」がなければならないのであり、それがないとポピュリズムになびきます。 政治への失望を語り始めると、いったい誰がこの政治家を選んだのかという不毛な問答になります。そこに行きついた時、単純に政治家の批判をしていても変わらないということに誰もが気づくはずです。
「この政治家にしてこの国民ありなのか」「この国民にしてこの政治家ありなのか」、率直に言って、双方がもたらした現状だと断言せざるをえません。しかし、率先して行動するべき存在は間違いなく政治家の側であると思います。
真の志とは、自分のためではなく他者のために、自らの代よりも次代のために立てる計であると思います。そのことを肝に銘じ、私の志を貫徹してまいりたいと決意を新たにしています。