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中田 宏が登場した、雑誌・テレビ・ラジオなどのメディアをレポートします。

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世界の辺境を歩けば、日本が見える 前編

『ジャパニスト』第2号(2009年7月発行)掲載記事
対談:小説家 曾野 綾子 × 中田 宏


不幸から学ぶ幸福

中田 今日はお忙しいところありがとうございます。曾野先生にお会いすると、「どうして日本人は、自分たちが幸せな国にいるっていうことを知らないのかしら」という先生の言葉を思い出します。
曾野 ずいぶん前でしたね。最初に「巡礼の旅」に同行していただいたのは。
中田 平成二年に初めて行ったのですが、先日先生とお会いしたときに驚きました。二十年前にイタリアで私がスリを発見したことを覚えていらして。あの頃は今よりもっと世界を知らなくて、巡礼の旅に出たことで複眼的なものの考え方を学ばせていただきました。イタリアで貧しい娼婦の少女が教会の前で祈りを捧げていましたよね。「今日はいいお客さんがつきますように」って。
曾野 それが人生なんですね。
中田 あのころ、「なんだかんだ文句を言ってもホームレスなんて日本にいないじゃないか、そんな国は世界中探したって日本以外ないですよ」と先生もおっしゃっていました。今はホームレスもいますけれども、そういう世界の現実を二十四歳当時に初めて見たことが、ものすごく印象に残っています。
曾野 生まれたころから苦しい思いを知らずに育った世代がそう思うのは当たり前で、仕方がないことなんです。日本の青年たちって賢くて、物事を知れば考え方を見直すという素質があるのに、大人たちが若者に良いことばかりで、悪質なものや悲しみを教えてこなかったんです。大人たちはもっと若者に辛いことも教える必要がありました。
中田 いま政治はぐちゃぐちゃとしているという印象ですが、先生から見て日本は幸せな国だと思いますか。
曾野 毎年のように訪れるアフリカでは、乾いたところで寝られるだけで、こんな幸せなことはありません。よく笑われるんですけれど、法務省の仕事をしているときに、東京拘置所を見て感動したんです。独房には畳があって、お手洗いがあって、その間にはちゃんとしきりがあって、すぐそこに洗面所があって、手や顔を洗える。アフリカでは水を手に入れるためには、長い間待たなければなりません。そしてその重い水を延々と家まで運ばなければ家族のもとに届けられない。だからアフリカの人が独房を見ると、「どうしたらあの部屋に入れてもらえますか」って言うと思いますよ。それほど日本は幸せな国だと思うんです。飲める水で体を洗って、救急車はただ。こんな国はありません。
中田 最近は、あまりに救急車の利用者のマナーがひどいから。
曾野 そうね、私も払える人には払わせる方に賛成です。私は一生に二度救急車にお世話になってるんですけど、お支払いすべきだと思ってますよ。どちらも足首を折ったケガでした。
中田 ところが、日本人って自分たちは不幸だと思うのが習性というか、幸せ感がないですよね。
曾野 そうなんです。それは文学でも同じで、不幸を書かないと売れないし、読んでくれません。不幸が好きなんでしょうね。そういうのが文学の世界でもあります。だからこそみなさんを貧しい社会や世界の辺境地に出してあげたいと思う時もあります。
中田 しかし、よく考えれば人の不幸を見ないと自分の幸せを感じられないというのは、おかしなことですよね。
曾野 でもね、それは想像力の欠如で誰もそうなのね。今の人はとくに読書しないから。私たちの若いころは、小説を読んでさめざめ泣いたという体験がありました。でも今の人は本を読まないから、自分の中に「他者の生活」という世界が見えないんです。
中田 読書でも映画でも、人の人生を知る、いろいろなことにイマジネーションを働かせる、ということのために大切なことです。そこが欠けているのですね。
曾野 そう。昔は本を読まなかったとしても、友達と遊びましたね。友達の家に遊びに行くと、僕の家より金持ちだとか、僕の家より不幸だ、とか、生の生活に触れます。でも今はそこに入り込まないでしょう。テレビゲーム相手に一人で遊んでいるから、ますます人に思いを馳せられない子どもになるのです。
中田 僕は今の日本人を見ていると他者との比較の中でしか幸福観を見つけられないという潜在意識があるという気がします。なにか絶対的な幸福観のようなものを、それぞれが持っていないのではないでしょうか。
曾野 その理由のひとつは宗教がないからじゃないですか。私はクリスチャンですけれど、正義というのは神との折り目正しい関係をいうんです。そこに他者の目はありません。神と自分との間に道筋みたいなものがあって、それが折り目正しくあるというのが正義なんです。正義って日本で言うと、少数民族を正しく扱うとか、裁判に冤罪がないというようなときに使いますけど、宗教上は「他者」はまったくいらないのです。神との折り目正しい関係が崩れたときにだけ、正義が崩れる。だから正義を取り戻すって言うのは、神がどう命じるかを考えるということなんです。
中田 日本人の勝手な解釈からすると、「自分の勝手な解釈をそれぞれにする」のが正義ということにもなってしまいませんか。
曾野 ある意味ではそうなんですよ。でも自分の解釈に全責任を引き受けるということですね。でも他者がないでしょ。絶対的なるものとの関係だけなんです。人間の中に善人と悪人を分けたりするけど、そんなのはないのです。比較的いい人と悪い人というのがいるだけで。
中田 僕はローマに行ったときに先生から受けた説明が衝撃的でしたが、スリの少年が教会に行って「いまからスリに行きます。神様、今日もいい客に巡り会えますように」って祈ってスリに行くそうですね。まったくもって宗教心がなってない、信仰心がなってない、不正義だと日本人は思いますよね。
曾野 でも彼には生活に宗教が密着しているということなんです。たとえば、子どもは今日の糧をお与えくださいって祈るときに「バターもついでに」って言ったりするんです。それくらい神は子どもにとっても身近なんですね。それはとっても人間的だと思うんです。
今、アメリカは一神教の人たちともめているでしょう。ユダヤ教やイスラム教などの一神教は、この世では一族だけが味方。あとは敵という意識が基本にあるんです。同じ宗教であって、血がつながっている、あるいは親族関係だけを信じる。そういうことをわかっていないでアメリカは戦争をやるでしょう。それではだめですね。信仰云々ではなくて、宗教というのを文化的にもっと勉強しなければならないと思うんです。
中田 私もおぼろげながら思うのは、人間の作ったルールとか序列とか、判断を越えた、絶対的な存在があるということが今の日本社会のなかでなくなってきていると思うんです。
曾野 昔は鎮守様の森に始まって、なにかありがたいものがある、とか、「閻魔様に叱られるから嘘をついちゃいけないよ」とか、絶対的な存在や神の存在がありました。いまは教育でも人を殺しちゃいけないということも教えないみたいですよ。
中田 そういうことは教えなくてはわからないものなんでしょうか。
曾野 一九五三年、「バー『メッカ』事件」というのがあって、慶応大学出の若者で正田という殺人犯が「僕は人を殺しちゃいけないって教わってこなかった」と言ったんですよ。ふざけるなという感じです。聖書の中には殺してはいけない、盗んではいけないという言葉があります。素朴すぎるという人もいるかもしれないけれど、そういう基本的教育が今の日本にはないのかもしれないですね。
中田 何を信じるかということは別にして、日本の社会では宗教観ってきわめて稀薄ですよね。
曾野 それは「不幸」を正視したくないからでしょうね。自分が病気だとか、貧乏だとか、自分の望む学校に入れなかった、好きな女の子に振り向いてもらえない・・・、何でもいいんです。そういう身近な不幸を正視しないで、それこそ政治が良くなればすべて解決するみたいなことを言っているじゃないですか。そんなことは政治で解決できないですよ。
中田 何かのせいにしている人が多すぎるという感じでしょうか。
曾野 それは本当の不幸や悪を知らないからです。私は日本財団を辞めたときに、あと何をやるんですかって聞かれたことがあるんですけど、「人間の悪について書きたい」って言ったんです。悪を考えれば、善が見えます。印象派の絵画と同じですよね。光を描けないから陰を描くわけでしょう。だから私は一所懸命、悪を見たいと思っているんです。
死を知る意味
中田「お天道様が見ている」とか「罰が当たる」という言葉があります。
曾野 良い言葉ですよね。生活に密着してますから。
中田 それは人間の中のルールを越えた言葉です。そこにはまわり回って我々の世界とは違った摂理が働いていると思うのです。
曾野 私は宗教と言いたくないので、美学と呼んでいるんですけど、人間を越えた判断の依ってくるところの根拠を持つべきだと思います。人間っていうのはくだらないものなのね。キリスト教では人間を被造物っていうんですよ。神に作られたものという考え方。だから必ず死ぬでしょう。被造物っていうのは大切だけど大したものじゃないという気持ちです。だから客観的に人間を見ることができます。私はそういう教育を受けました。
中田 教育というとすぐに学校教育ということにとらわれてしまいがちです。
曾野 私ははっきり宗教教育の中で教わりました。幼稚園からです。カトリックでは一日に五回、「死」について考えて祈るんです。私は始終さぼってますけどね(笑)。子どものころから「死」について考えるということが染みついたのは、私にとって非常に良かったと思います。その点、日本の戦後教育の失敗の一つは、基本を教えなかったことです。人を殺しちゃいけませんとかね。それから日教組は要求するのが人権と言ったんです。でも同時に必要なものを譲るということも人権だということは教えなかった。本当の人権とは、自分が持っているものさえも譲るということなんです。極論すると、命さえもなんですけど。
 臓器移植の話もそうです。本人が臓器をあげたくないというのなら良いんです。でも、あげたい人と、もらいたい人がいても、それを認めないというんですね。
中田 人の死について、臓器移植の問題では脳死=人の死と法的に定義をしなければ話が始まらないわけですが、こういう問題を神との関係とか、自然の摂理という点においては、先生はどう整理されておられるんですか。
曾野 脳死は不可逆的死ということですけれど、もちろん何年も生き続けた例というのもあるようですね。それをよしとする人もいれば、かわいそうだと思う親がいても良いのではないかと思うんです。だからあげたい人と、もらいたい人との間で暫定的に移植が認められても良いのではないかと思っていました。
中田 それが認められると、脳死状態の患者を持つ家族はなんであげないんだと言われる、そういう目で見られるのは困る、という意見もあります。
曾野 それは個人の問題なんです。家族が拒否できるようになっているんですから。反対に私だったらあげたいですね。そういう個人の意志は通させていただきたい、と思います。
中田 死を自ら選ぶということも人権ですか。
曾野 そうです。それは強制されたり、学校で教えることでもないです。
 先日ドイツから来た友人に聞いた話です。スイスでは安楽死が可能なようです。スイスには尊厳死を執行する組織があって、電話一本でスイスから車で迎えに来てくれるそうです。スイスの国境に入ったところで、安楽死をさせてくれる。私はまだあんまりいい気持ちがしないですけどね。
中田 うちの父はガンで亡くなりました。死期が迫ってきていることをわかっているのに、一日あるいは数時間命を延ばすだけの治療が施され、体は副作用でむしばまれていく。そんなとき、できれば静かに死を迎えたい、わかりやすく言えばモルヒネを打って、苦しまずに息を引き取りたい、私だったらきっとそういう死を選ばせてほしいと願うと思います。そういう選択肢が与えられていいと思います。
曾野 私も同じ。現にそういう治療を施しているホスピスなども出てきましたね。世界にはさまざまな「死」の形があります。私は以前、姥捨て山を見てきました。姥捨てをやっている国はアフリカでたくさんあります。アフリカではまだ一般的に誰かの呪いで人が死ぬと思っているんです。誰かが死ぬと、呪った人を巫女みたいな人が見つけだします。だいたいおばあさんで、その人は村から追放され、彷徨い歩いて盗みなんかを働いてなんとか食いつないでいます。カトリックの修道女がその人たちを何百人と集めて、施設で食べさせていました。結局は姥捨てなんです。社会が食べさせられないから捨てるんです。つまり政治が貧困を救えないんですね。
中田 でも、日本ではそれは非人道的、前時代的という批判に、なりますよね。
曾野 そうなるでしょうね。だから私は「日本はひどい社会だ」という人に、こういう話を聞かせたいんです。各地にありますよ、こういう話は。
中田 僕もアマゾンで原始的な生活をしている人たちの話をテレビで見たのですが、そこでは女性が妊娠すると、村の女性だけで森に入り子どもを産み落とすのです。産まれてきた子どもを育てる、育てないは神のお告げにしたがって、産み落とした女が決めるのだそうです。だから何割かはわかりませんが、相当数の子どもたちが母親に「この子は違う」と判断されて捨てられていく。
曾野 他の国でも、同じケースはいくらでもあります。アフリカでは生きられない子どもには、もう食べさせない。
 たとえばエイズにかかった子どもとか、お乳の吸えない子どももだめだし、母親のお乳が出なかったらその子どもは死ぬより仕方ないと思うの。粉ミルクなんて買えるお金もありませんし。そうやって死ぬ運命というのは歴史的にたくさんあったんです。それを文明というものが入ってきて、少しずつヨーロッパなどから修道院が入ってきて、その子は売らないで育てましょうとなったんです。われわれはひどいとか非人道的というけれども、人間の歴史にはそういう時代があったはずです。
中田 僕は先生の言葉を聞くと、いつも良い意味の開き直りというか、気が楽になるときがあります。そんな世界があるのだから幸せだと思えるし、いま抱えていることは大したことじゃないなとか。でも、世の中の多くの場合は、「それは論外の話だろう」とか「対象が違いすぎるんじゃないですか」ということになりませんか。
曾野 そう言われちゃうのよね。でも、これは人間のスタートラインの話ですから、消しようがないんです。究極のところ、死を思うということは、生きる原点を見つめるということなんですから。